学校嫌いの原点

  学校嫌いの原点


 私は生来の学校嫌いである。小学校は一年生から挫折した。夏休み明け二週間か若しくは一ヶ月弱の間登校拒否となったのだ。その時分のこととして覚えているのは、学校にいればコーラも飲めないなと考えていたことだ。家にいたら学校以外だったらごく簡単に手の届くコーラでさえ制限される、そんなことを思っていた。
 小学校高学年になると私は学校を休みがちというような具合になっていた。そんな中で、課外活動があった次の日に学校を休んだときのこと。その日は母親と出かけていたのだが、帰り道に同級生と遭遇してしまった。それでも休みの日をどう過ごそうが個人の自由だと確信していた私は大して気にも留めなかった。明くる日、私は学校で担任にチクられた。詰問されたので咄嗟に、課外活動で疲れていた、などと説明をした気がする。担任は、それでも皆んな休まず来ている、などというようなことを返す。私は、学校を休むも休まないも個人の自由であると考えていたし、増して、休みをどう過ごしたか、文句をつけられることがあるのかとショックを覚えたのをはっきりと記憶している。
 これは今の学校観が垣間見えるような出来事だ。私にとって学校とは生活の中心ではなく、あらゆる場面のうちの一つで特別ではない等価のことであったのだろう。
 騙し騙し学校へ行っていたのが、中学一年の夏休みで力尽き、私はそこから本格的に不登校となり、早々に社会のレールから離脱した。
 私はこの経験を振り返って何か語れるほど次の段階へと進んだような気はしないが、ひとまず自分なりの幸せを見つけて、それに邁進するような悠々自適の生活を送りたい、      

 

※某ライター講座の宿題として書いて存在を忘れていたが、それなりにいいと思ったのでそのまま載せた。

"私は生来の学校嫌いである。小学校は一年生から挫折した。" この始まり「吾輩は猫である」っぽい。

特に意識したわけではないと思うが、忘れた。

このあとがきを書きながら文章を眺めてみて思った。