マイ・フェバリット

  マイ・フェバリットソング
 私はマイ・フェバリットにスピッツの「渚」を挙げたい。それも二〇二一年のライブ"NEWMIKKE"での渚を語りたい。 
 渚といえば明るく、きれいで、気分のすっきりする曲調だが、このライブではキーが半音下がったアレンジがなされている。これこそが渚を進化させ、完成させたと私は思う。
 アレンジで原曲よりも落ち着いた曲調になったことで、楽曲が発売されてからの実際の時間経過が歌詞に乗り、遠い昔を回顧するような雰囲気になった。それとともに深みを増した草野マサムネの歌声と会場中を差す青や水色の光に包み込まれる。
 楽曲発売から二十五年が経ち、楽曲・演者・演出の全てが真に一体となり、唯一無二となった至高の演奏には心を打たれる。

 

※某ライター講座の宿題である。

マイ・フェバリットなんて、ダサいタイトルなのも先方からそう指定されたためだ。

もともと、2021年の渚の素晴らしさを文章にしたいと思っていて、先延ばしにしていたのでこれはいい機会だった。

原稿用紙1枚400字以内という制限があったので、ブログに載せるなら大幅に加筆してからにしようかと思ったが、おそらくそれは一生なされることがないので、短くまとめたなりの良さもあるかと思うことにして、そのまま載せた。

なぜ、一生なされることがないのか、それを書くのも面倒くさい。

 

https://www.bilibili.com/video/BV1AU4y1K7wS/

この動画の1時間35分あたりから観られるかもしれない。
一ヶ月後にBlu-rayが出るのでそれまでならいいだろう。
なお中国のサイトだからだろうか、Safariでは開かない。

学校嫌いの原点

  学校嫌いの原点


 私は生来の学校嫌いである。小学校は一年生から挫折した。夏休み明け二週間か若しくは一ヶ月弱の間登校拒否となったのだ。その時分のこととして覚えているのは、学校にいればコーラも飲めないなと考えていたことだ。家にいたら学校以外だったらごく簡単に手の届くコーラでさえ制限される、そんなことを思っていた。
 小学校高学年になると私は学校を休みがちというような具合になっていた。そんな中で、課外活動があった次の日に学校を休んだときのこと。その日は母親と出かけていたのだが、帰り道に同級生と遭遇してしまった。それでも休みの日をどう過ごそうが個人の自由だと確信していた私は大して気にも留めなかった。明くる日、私は学校で担任にチクられた。詰問されたので咄嗟に、課外活動で疲れていた、などと説明をした気がする。担任は、それでも皆んな休まず来ている、などというようなことを返す。私は、学校を休むも休まないも個人の自由であると考えていたし、増して、休みをどう過ごしたか、文句をつけられることがあるのかとショックを覚えたのをはっきりと記憶している。
 これは今の学校観が垣間見えるような出来事だ。私にとって学校とは生活の中心ではなく、あらゆる場面のうちの一つで特別ではない等価のことであったのだろう。
 騙し騙し学校へ行っていたのが、中学一年の夏休みで力尽き、私はそこから本格的に不登校となり、早々に社会のレールから離脱した。
 私はこの経験を振り返って何か語れるほど次の段階へと進んだような気はしないが、ひとまず自分なりの幸せを見つけて、それに邁進するような悠々自適の生活を送りたい、      

 

※某ライター講座の宿題として書いて存在を忘れていたが、それなりにいいと思ったのでそのまま載せた。

"私は生来の学校嫌いである。小学校は一年生から挫折した。" この始まり「吾輩は猫である」っぽい。

特に意識したわけではないと思うが、忘れた。

このあとがきを書きながら文章を眺めてみて思った。
            

人生初活字化

僕が今通っているライター講座のようなところで課題として出されたものをこのブログにそのまま載せようと思う。

前提として講師が昔執筆した本のネタの形式となっている。

あるあるを法則と銘打ち、少し学問っぽく仕上げたエッセイだ。

   雑談の法則

 生物学的な血液型だけでなく社会的な血液型も存在する

 

 一見同じ言葉でも使われる場面、文脈によって意味、役割が変わることはしばしばある。 例えば昨今よく取り沙汰される「性別」について、詳細に関しては知らないが、生物学的な性(sex)と社会的な性(gender)の二つがあったりする。血液型についてもこんな感じで二通りの意味があるような気がする。

 元来、僕は雑談の中で血液型と性格を関連付けるような話題が嫌いだ、忌み嫌っている。それは保育園児だった時分、一体なぜ赤血球の表面にある抗原の違いが脳に作用して性格の違いへと出るのか(おそらくそこまで難しいことは考えていなかったと思うが、とにかく!)血液と性格という突拍子もない二つのものがなぜ因果関係を持っているのか全く理解できずにいて、のちになんの科学的根拠もない日本だけの文化だと知ったとき、途轍もない肩透かしを食らったような気がした経験があるからだ!

 そんな僕でもこの血液型性格分類大翼賛社会で暮らしているとただ否定ばっかりしている訳にはいかなくなってくる。そこで、社会的な血液型だ。B型は自分勝手、AB型はマイペース、、、こんなまやかしもひとつの体系なのだ。ここでいう何型というのは決して生物学的な物質的な血液型ではない。ある一つの傾向、分類を血液型として置き換えているのだ。多くの無自覚な血液型性格分類翼賛者はこれを暗黙裡に了解しているのだろうが、僕はこれを概念化しなければ解らなかった。

 ただ、だからなんだ、何が面白い?

 キリスト教徒は絵踏みを出来ないし、賽銭泥棒に神道の信者はいない。そういうところだ。

これを母親に送ったところ(課題として出された文章だから見せただけで普段のブログなんかは存在すら知らせていない、マザコンではない)落語っぽいという評価を受けた。

落語的な洒落(夏目漱石の坊ちゃんやYouTubeに違法アップロードされていた1994年の爆笑問題の漫才もそんな感じがした)はかなり好きなのでもし本当にそうなら結構嬉しい。

今まで文章は自分の好き勝手に書いていたのでこうして課題として出された創作でも存外書けるものだと知ってちょっと嬉しくなった。

これは冊子となって活字化されるらしい。

人生初労働

人生初の労働となるアルバイトが終わった。それは毎週月火木金曜日午前6:00〜9:00のミニストップでの接客・販売であった。

期間は3月15日から始めて本日4月15日までの一カ月間となった。

本来は今年一年間の予定であったが所用により急遽一ヶ月となってしまった。

 

ただでさえ労働時間の限られている留学生を積極的に雇うという方針のためシフトのやりくりに頭を抱えていて、さらにこの新学期が始まってシフトに入れる人が減っている、このタイミングで辞めるという我儘を許していただいた店長に心より感謝申し上げます。

 

ここでは今までの僕の人生で最も遠くにあったであろう労働という経験を通じて気づいた己の特徴について雑多に、思いつきで書いていこうと思う。

 

・言われたことをこなすのは得意

これは二週間目くらいから始めたホットスナック(FFと表記されていたので以後FFとする)作りで気付いた。基本的にFF作りというのは作る量、作り方、並べ方など諸々がすべて予め決まっている。なので従業員はひたすらこれに従って作業を行えば良い。しかも、朝は二人体制で片方はレジだったりを担当するので完全に自分一人のリズムで作業を進めることができる。これが僕にとって都合が良かったのだろう。存外楽しむことすら出来た。初めて作ったときは相方に見守られつつであったので記憶していないが、それからはすべて作り終えるまでにどれほどの時間を要したか、毎回確認していた。初めに記録したときは37分であったと記憶している。一番早かったのは昨日で24分だ。約三週間で13分の短縮に成功した。

ある食材を揚げている間にどれだけ別の食材をレンジで温めることができるか、どの食材を一緒に揚げると時短出来るかなど、如何にロスタイムを少なく出来るか工夫の余地があってなかなか楽しめる。

ちなみに一カ月働いて今日初めて一つの油槽で二種類のFFをそれぞれのタイマーをセットして作ることができるのを知った。これをもっと早く知ることができていたら10分台も記録することができたかもしれない。

余談だが、今日からはFF販売の仕様が変わり、作る量が大変多くなったため競技として単純な比較が出来なくなったので記録を伸ばすことはならなかった。

さらにもっと細かいことを言うならば、今までチキンキエフという商品を一つ作っていたのが今週から僕の働いていた店舗では販売を辞めたのでそのチキンキエフ一個分の時間を考慮しなければいけないが、恐らく大した差にはならないであろうからここでは無視させていただく。

もしFF作り日本選手権があれば全国にはどんな猛者がいるのだろうかと想像することもあった。

一回くらいはFF作りをやってみてほしい。

マニュアルに従うというのはシステマティックである。

 

 

・やっぱり挨拶が苦手

THE・コンビニの仕事といえばレジ打ちだ。

ことミニストップに関していえばセミルフレジとなっており、手作業はお客さんの持ってきた商品のバーコードを読み取り、数回レジのボタンを押すだけだ。だが、挨拶はしなければならない。

「いらっしゃいませ。ありがとうございました。」

いくらレジのスピーカーが挨拶をしても人間も言わなければならない。

僕は元来挨拶が苦手だ。理由は定かではない。気付いたときには苦手であった。

挨拶のどこが苦手であるか。

いつ言葉を発したらいいのかよく分からない。

どのくらいのトーンで言えばいいのか分からない。

そんなことを考えているうちに好機を逃し、また声帯も固まる。

こんなところだ。

先ほどマニュアルについて述べた。挨拶だってコンビニはマニュアル化されている。いつなにを言うのか。だけどもどうしてもうまく要領が掴めない。固まってしまう。なので独自に、お客さんがレジ袋に手を掛けたら言おうなどと事前に決めなければ言うことができない。もし何か予測が外れてしまいその機会を逃したりなどすればもう対応出来ずに結局、無言のまま終わる。

これだけは一カ月の間で全く成長しなかった。

基本中の基本であろうに、

 

 

・夜早く寝て朝早く起きるのはそう単純なことではなかった

僕がアルバイトを始めた理由の大きな部分として生活リズムの改善、朝方の生活を求めたというのがある。だから六時九時だ。しかし、予想していなかった事態が起きた。僕は朝が早い生活ならば夜も早く眠れるものと思っていた。

悲しい現実、眠れない。

朝六時開始ならば五時半には起きたい、さらにシャワーも浴びたい日などは僕が潔癖症なのも加担して最低四時には起きていたかった。しかし十一時になっても眠れないことはザラであった。さらに僕は睡眠が長い。よって一日に五時間睡眠を二回取るというようなことになった。これは全く想定外であった。本来なら眠っているタイミングで無理矢理起きなければならないというのは本当にキツかった。三十分から一時間布団でモゾモゾ何重にも掛けたアラームを浴び続けていた。

ただ、長時間の昼寝を必要とするとはいえ、朝起きている、ある程度活動することが出来るというのは社会的健康には良かったと思う。

次アルバイトをするとしたらもう少し遅くブランチくらいでも良いかもしれない。六時九時は睡眠のストレスで早死にしてしまう。

 

 

・精神状態は安定していた

改めて振り返ってみて、なんだかんだこの一カ月精神は安定していたのではないかと思う。

それは僕の働いたミニストップがかなりホワイトな職場であったというのが大きい。僕はここ以外で働いたことがないので比較などは出来ないが、近くは小学校や神社などがある大きくいえば仙台駅東口であって程々に都会で治安はいいのでお客さんも変な人はいないし、店長の人柄も初めて働く身であっても大変安心のできる優しさがあった。時間帯の被っていた従業員も軽く雑談などのある、いいドライさであった。

 

 

初めてのアルバイトととして本当にいい経験であったと心の底から思える。

たった一カ月で辞めることになってしまい大きく迷惑をかけてしまったのでそこは本当に申し訳ない。

 

マイペースに生きていこう

納豆メーカーとはショッカーである

納豆とは仮面ライダーなのである。

仮面ライダー一号の成り立ちを皆さんはご存じだろうか。

科学者でオートレーサーの大学生本郷猛はある日、ショッカーに連れ去られて改造人間にするべく監禁されてしまう。しかし、改造の途中でショッカーの目を盗んだ本郷猛は逃げ出すことに成功し、半人間半怪物として辛うじて残した人間の良心を元にショッカーと戦う。

ざっくりこういったストーリーだ。

では、ここで納豆はどうだろうか。

ただ純粋に大豆として存在していただけなのに、突然何の前触れもなく容器にぶち込まれ、謎の菌をばら撒かれて監禁させられる。

そうしたらあろうことか糸引くぬるぬるとした奇体と不老不死の身へと改造させられてしまう。

そういえば、仮面ライダー一号の初回は蜘蛛男の話だった。

蜘蛛男→蜘蛛→糸引き

これが何を意味するのか、勘のいい人はもう気づいたよね、

https://m.youtube.com/watch?v=ArV2BAsvg-8

自称

僕は家に居るとき、何も考えられなくなり、結果的に何も考えずに済むから歌を口遊むことが多い。

 

自称ADHDのようになってしまったらかなり嫌だが、ネット上のADHDの特徴みたいなものはかなり共感出来る。


中学時代に一瞬だけ入っていた野球部での全体ノック(ランダムにさまざまなポジションへ打球を飛ばして捕球させる練習)ではすぐに他のことに意識がいってしまってボーッとしてるから他の人のようにすぐ反応出来ずにボールを逸らしてしまったり、高卒認定の試験の時には、降りる予定のバス停が次だというアナウンスが流れたら降車ボタンを押す前なのに満足して気づいたら通り過ぎていたり、関係ないかもしれないが今まで鍵と財布を3回くらいずつ無くしている。ちなみに、初めて財布を買い与えられたとき、僕の母親は何かあったときのためにと、会計の際に横で待っていたりするとよくお釣りの小銭をくれた。しかし一回無くしたきり、それからは一切くれなくなった。

 

最近、ADHDの脳内では常にワード連想ゲームが行われているというような、確かそんな趣旨の画像を見た。これも非常に良くわかる。僕の場合は本を読んだり、YouTubeや映画を観たりしているとよくそこから妄想が始まり、一旦それらの視聴を止めて耽ることがある。無意識のうちに、気づいたら関係ない妄想をしている。これは結構な才能だと思う。

 

まあただ、全然共感出来ないこともあって、授業中教室を歩き回ったりだとかそういうのはない。

ちょっとそれに掠っているかもしれないもので記憶にあるのは、小学生のときに個別指導塾で講師が僕の席から他の生徒の指導へ移った際、何故だか理由は知れないが「あー」と意味もなく声を出していたら「うるさい」と注意されたことはある。入塾の際、学校みたいに怒ったりはしないから、と説明されていたため「怒るのかよ」と衝撃を受けたので痛烈に記憶している。ただこれは単に空気が読めないだけだろう。それに今はしない。

 

僕は、精神科に全然定期的に通えてないとはいえ、通院している中で医師から特に気質的なものがあるとは言われていないので、全く持って自称の人と同質となってしまうのだが、受験勉強がもしや、、と思ってしまうほどにこれっぽっちも集中出来ない。

 

どっか受からせて。

間抜けな間食

こんな馬鹿げた非合理なことはやめるべきだ。まったく俺の社会不適合性といえよう。

昼夜逆転不登校、不勉強、、堕落しきった俺でも自分を律する心がないわけではない。それは一言でいえば、体型に関することだ。俺は体を引き締めたい、モテたいから。このままではいけない、なんの努力もなしに選ばれることなどないだろう。そんな俺もおそらく太ってはいないはずだ。現に体重も標準的である。ただ、いかんせん筋肉がない。十八の男に筋肉がないなんていうのも情けない話だ。中高通じて(通ってないが)部活などしていなければ、当然運動習慣もない。まったく運動とは無縁の日々を送っている俺たが、この新たに大学生活を控えた(本当に控えてしまいそうでもある)二月初旬、この怠惰な俺も、未来の性欲を救うため、食事制限を意識してみることにした。即ち性欲でもって食欲を抑えようということだ。

なぜ、食事制限なのか。実のところ、俺は数ヶ月前から筋トレを始めている。とはいっても、やはり運動習慣の無かった人間のすることなので、途中数週間サボったり、メニューを減らしながらというふうな具合ではあるが。ひとまず、一日60回のスクワットは続けられている。しかし、いくら筋トレをしたとしても、食べたいだけ食べていたら埒が明かない。それに、筋トレは脂肪を減らす手助けはしたとしても、直接減らすというものではないだろう。本当はウォーキングやランニングでもしたらいいんだろうけど、俺は出不精なうえ、さらに周りに人がいる中でのそれというのは恥ずかしくて敵わないので厳しい。だから、ひとまず食事制限をしてみる。

その食事制限というのは1、間食をしない 2、満腹中枢が刺激される前に物足りないからといって余計に食べるのをやめる 3、暇だからといって食べない、というようなものだ。

1、食べても食べなくても変わらない、脂肪を作るだけの全く意味のない行為だ。

2、ついついやってしまって、おかわりを食べている最中から後悔するくらいなのだが、なんとなくただの一回の食事として忘れてしまう。

3、これは暇を持て余した俺がよくやることで、そこまで腹も減っていないのに、(真っ当な人でいうところの)食事時だし、他にやることもないから、という理由でなんとなく食べてしまうのだ。

そんなところで俺はこれらの食事制限を意識し始めた。

俺は14時40分に目が覚めた。そもそもの予定でいうと"昨"晩アラームまでかけて12時に起きようとしていたので、これは大幅に寝過ごしたことになる。寝ぼけ眼でスマホを一瞥したことにより多分に期待を削がれた一日が始まった。

目が覚めてからいくらか経ち、時計に目をやると十六時を指していた。多少小腹は空いていたが、あと数時間も待つと夕飯、なにより食事制限を意識し始めていた俺はそのまま何も食べずに過ごすこととした。それから、夕飯まで実際に俺は我慢できたし、無駄にべちゃべちゃ食べていない俺、に得意になったりもしていた、この判断が虚しく徒労に終わってしまうとも知らずに。

夕飯を終えてから特筆すべきこともない反社会的ともいえよう怠惰な時間を相も変わらず過ごしていた。

日も変わった深夜。少々小腹の空いたのを感じたか感じていないかなんの気なしにキッチンへと向かう。そこで一つ鍋が火にかけられているのを発見する。よくよく見てみるとそこでじっくり火にかけられていたのは玉こんではないか。玉こんというのは山形の郷土料理で球いこんにゃくを醤油入りの出汁で煮込んだもので、カラシをつけて食べると最高に旨い。我が地元仙台でも祭りなどの屋台でよく売られている。そんな玉こんは俺の好物だ。

小腹が空いているのを認めた俺は、「よし、玉こんならカロリーはない。どうしてもというときはこれをつまむこととしよう。」そう決めた。

間食をしない、というのは一体何処へやら。恐ろしく己に甘い俺は、この時点で既に食事制限の意識を壊し始めていた。そうと決めてしまってからは早い。俺は盗みにでも入ったのかというように、真っ暗な台所へこそこそ行き、ガスコンロの上にあるライトをつけ、鍋からスプーンでひと玉だけ掬い、いそいそと冷蔵庫からカラシのチューブをだし、ちょろっとつけ、さっと口に入れたらさっさと自室へと戻っていく。そんなことを4、5回繰り返した。また、これが普段よりも旨く感じたりするから憎い。そんなこんなで時刻は四時になっていた。ぼちぼち寝ようかというところでベッドに入るがなかなか寝付けない。元々の昼夜逆転による睡眠の乱れもあるだろうが、やはり真因は空腹であろう。玉こんは低カロリー故に太らないが、低カロリー故に腹は満たされない。

YouTubeに違法アップロードされていた石原慎太郎西村賢太の対談動画の中の石原慎太郎が寮生活していたころのエピソードの影響、壊れかかった食事制限の意識、、俺は無性に菓子パンが食べたくなっていた。ここまで来たら、もう終わりだ。俺の生来の甘さ、「取り敢えず、今は寝るのが優先だ。それに今日は一食しか食べていないし、菓子パンくらい食べてもいいだろう。」そうしてあれこれ正当化した俺はすぐさまキッチンへと向かった。戸棚からマーガリンと砂糖が塗りたくってあるパン、それに冷蔵庫からいちごミルク、もう完全に壊れているのであろう、甘いのばっかりでは飽きるだろうからといってカルパスまで用意した。むしゃむしゃ食べる。パンといちごミルクが思いの外甘かった、カルパスが予想以上に進む。あれだけ望んでいた菓子パンよりも先にカルパスを食べきってしまった。そこからは甘いだけの食事。飽きる。また、空腹のときというのは実際の空腹具合よりも多く食べ物を用意してしまうものだ。ある程度腹が満たされてくるといちごミルクがキツく感じる。もうそこからはいつものおかわりのときと同様の後悔の念に駆られる。そうして全て食べ終えた後、口が甘ったるいのに耐えかねて玉こんをまたひとつつまんでしまったりしながら、ベッドに入る。なんだ、結局寝付けないじゃないか。それでなんとなくこれを文章でまとめてみることにした。

こんなことなら、夕方に小腹を満たしておけばよかった。ゼロヒャク思考の悪いところだ。食べるか食べないかではなくちょっと食べておけばよかったのだ。そうすればあんな脂肪の出来やすそうな時間にあれだけ食べずとも済んだのだ。結果的に食事制限からいうと最悪な事態へとなってしまった。

この経験を活かして俺の食事制限はちょくちょく破って程々に続けていくこととする。